生え抜き大学職員日記

日々の中でふと思ったことを書いていきます。

「将来の夢」とは

こんにちは。

大人が子供に「将来の夢はなに?」と聞くことってありますよね。そのとき、私たち大人はどういう答えが返ってくると想像しているでしょうか?

男の子ならサッカー選手?パイロット?女の子ならケーキ屋さん?看護師?私の子供の頃はこんな感じでしたが、時代の古さを感じますね(笑)今はやっぱりYouTuberなんでしょうか。

ところで、私たち大人は子供が「将来なりたい職業」を答えるのを当たり前のように思っていますよね。でも、「夢」を聞いたのに、「職業」を答えるのって、少し変だなと思います。

実はこの点、先日読書記録を投稿した森博嗣さんの本『やりがいのある仕事という幻想』(朝日新聞出版、2013年)に書かれていることで、初めて読んだとき、なるほどと感じました。

将来の夢という言葉と裏腹に、何故かほとんど例外なく「どんな職業に就きたいか」ということを子供たちは答えてしまう。おかしな話だと僕は思う。子供だったら、もっと「一日中遊んでいたい」とか、「宇宙を冒険したい」とか、あるいは、「大金持ちになって、自分の庭に遊園地を作りたい」というくらい書いても良さそうなものだが、せいぜい、スポーツ選手になりたいとか、ダンスの先生になりたいとか、どうも仕事の種別に子供たちは拘っているようだ。

森博嗣『やりがいのある仕事という幻想』(朝日新聞出版、2013年)p.38-39

確かに子供なら、「お菓子の家に住みたい」とか「おもちゃを好きなだけ欲しい」とか言っても良さそうですが、なぜ職業になるのか。これは意外と大事なことだと思うんですよね。

森さんは、小さい頃から主に年寄りの大人(祖父母、おじおば、近所の人)が「将来は何になりたいの?」と聞くのが悪いと書いていますが、それだけ私たち大人が職業というものに拘っているんだと思います。

職業によって生活リズムが決まったり、収入が決まることは現実的にあることだと思います。でも、夢(やりたいこと)を職業と結びつけるのは、飛躍のような気がします。

夢は、仕事で得た給料をもとに実現することであり、どんな職業でも給料が得られ、それをもとにやりたいことを実現できる可能性はあります。給料が足りなければ、貯金したり、節約したり、転職したり、副業したりと、選択肢はたくさんあります。だから、ある職業に就くことが夢というのは本末転倒なのだと思います。

現代もそうなりつつありますが、将来的には職業で人の価値を見ることはもっと減るのではないでしょうか。そのためにも、まず私たちが大人が、子供が子供らしい夢を持つことを肯定的に受け入れていくことが大切なのかなあと思いました。

読書記録:やりがいのある仕事という幻想(森博嗣)

久しぶりの更新です。

図書館で取り寄せていた本をGW中に受け取るのを忘れ、取置き期限を過ぎて所蔵館に戻ってしまいましたので、とりあえず家にある本を読んでいました。

今回読んだのは『やりがいのある仕事という幻想』(森博嗣朝日新聞出版)です。

実はこの本は最初に読んだときにとても感銘を受けまして、定期的に読み返しているバイブルのような本です。森博嗣さんは中学生のときに小説にハマっていたのですが、近年は新書も多く執筆されており、その考え方がとても参考になるため、私は良く購入しています。

本書は仕事をしている人なら誰でも感じる悩みや葛藤に対して、大学教員→作家というキャリアを歩んだ作者が、シンプルかつ論理的な向き合い方を示してくれる内容になっています。

本書を読んで私が大切だと感じたことは下記3点です。

  1. 仕事とは、自分の楽しみ(夢、趣味等)を実現するためにお金を得る手段である
  2. 手段である仕事に、自己実現を期待したり、自分の存在意義を見出す必要はない 
  3. 自分の楽しみは、他人と比較したり、他人から羨ましがられることで得られるものではない

働く女性の増加、定年の延長で働く人口が増え、同時に仕事でメンタルを病む人も増えるなど、昨今、個人の人生における仕事というものの比率が大きくなっていると感じます。そうした中だからこそ、「仕事は金のため」と割り切り、仕事に人生を支配されないことが大切なのではないかと思います。特に私が印象に残っているのは次の文章です。

そもそも、就職しなければならない、というのも幻想だ。人は働くために生まれてきたのではない。どちらかというと、働かない方が良い状態だ。働かない方が楽しいし、疲れないし、健康的だ。あらゆる面において、働かない方が人間的だといえる。ただ、一点だけ、お金を稼げないという問題があるだけである。したがって、もし一生食うに困らない金が既にあるならば、働く必要などない。

森博嗣『やりがいのある仕事という幻想』(朝日新聞出版、2013年)p.51

私も仕事であれこれと日々悩むのですが、この文章だけでも肩の荷が降りるような気持ちになります。

また、SNSでも仕事や職場に関する愚痴、あるいは(仕事に限らない)自慢なども多くの人が発信していますね。でも、それって「仕事はこうあるべき!」とか「こんな風に働くのが私なんだ!」という自分の思い込みが原因だったり、他人からの評価を気にし過ぎているのかもしれません。時々立ち止まって、「自分はどうしてこう考えるのだろう」と分析してみるのも大事だと思いました。

本書は書かれてから10年ほど経っているのですが、内容は今でも全く色褪せずに通用するものだと思います。

概要を伝えてわかりやすく

仕事をしていて思うのですが、コミュニケーションをする上で、伝えたいことの概要を先に伝えることって結構大事だなと思います。

要は相手に話しかけて本題に入る前に「これから何の件についての話をするのか」を伝えることでして、そんなの簡単じゃないかと思うんですが、意外と実践が難しいのかなーと感じる場面に多く遭遇します。

私のいる部署は比較的小さな部門で、上司との距離も近いのですが、そのせいか突然本題から話し始める人が多いです。

例えば、Aさんという学生の対応で上司に一度相談しており、その進捗を報告する場合、「Aさん大丈夫そうです!」で済ましてしまうことが多いのです。これ、Aさんの対応がその日に発生したことであれば上司もすぐ理解できるんですが、数日前に発生して継続対応していた案件ですと、上司はAさんのことを忘れていて「何の話?」となることが多いんです。

学生の対応なんて日々何件も発生していますし、他にも重要な案件に対応していますので、よっぽど深刻な学生の案件でない限り、1人1人のことなんて覚えていられないんですよね。ですので、Aさんの例の場合ですと、「◯◯の問題があったAさんの件ですが…」などと先に言うとわかりやすくなる気がします。

実際に体験するとわかりますが、相手が何の話をしているのか不明瞭だと、聞く側は話の内容を理解することに加え、「この人は何の件を話してるんだろう?」と耳から入ってくる情報を頼りに思考を巡らせることになりますので、案外ストレスが溜まるものです。

いや、わからなければ相手が質問してくるだろうし、そんなに細かく気にしなくていいじゃないか…という意見もあるかと思いますが、相手が忙しいとそれほど余裕がない場合もありますし、聞き手のことを配慮できない人だな…と、良くない印象を与える恐れもあります。

いずれしても、少しの手間で話が理解してもらいやすくなりますので、予め概要を伝えることは大事なんじゃないかなあと思う次第です。

就活で失敗した話②

以前書いた就活の続きです。

業界もテキトーに決めた私は、それでもとりあえず3年生の12月に企業の広報解禁でしたので、12月1日には就活サイトにかじりついてプレエントリーし、説明会を予約していました。

当時はリーマンショックからまだ景気が回復しておらず、就活には厳しい情勢ということは私のような世間知らずな学生でも感じていましたので、「どこか拾ってくれますように」と願い、100社ほどプレエントリーしました。

そう言えば「大卒求人倍率」という、大卒者(院生含む)1人にどのくらいの求人があるのか示す数字がありまして、大学生の就活の厳しさを測る参考にしたりもするのですが、調べてみると当時は1.27倍だったようです。もちろんバブル崩壊後の就職氷河期よりは全然良い状態なのですが、近年の中ではプチ氷河期?のような割と厳しい時期だったようです。直近の2023年卒は1.58倍ですので、随分回復したなあという感じがします。

まあそのときにはそんな数字は出ていませんから、「プレエントリーは最低でも80社はしないとダメだ」みたいな、誰が言ったか根拠もよくわからない言葉に踊らされていた気がします。

私は今でも記念として、就活のときに使っていた手帳を残しているのですが、12月と1月の初旬くらいまでは説明会に行くことが多かったようです。コートを着ていたのを覚えていますね。1月中旬くらいから早い会社で面接が始まり、2月と3月も説明会に行きながら筆記(web 含む)試験や面接も受けて…という感じでした。

なお私のときは選考解禁が4月1日でしたので、それより前に選考がある場合は「セミナー」などの呼称を企業が使っていました。実際には選考ですので、名前を変えてどうにかなる問題でもないと思うんですが、これは今も変わらずの慣習かな?と思います。

4月1日までの選考結果はというと…内定どころか一次面接をほとんど突破できないというダメダメな結果でした。大学名のおかげか、説明会に参加できなかったり、書類選考で落ちることはほぼありませんでした。書類の通過率は99%くらいだった気がします。この時初めて大学のネームバリューに感謝しました(笑)

ところが、書類で落ちない(一次面接までは行ける)ということが、むしろ私にとっては不幸だったのです。なんとなーくの興味と、どこか拾ってくださいという受け身な姿勢でたくさんエントリーして、ほとんど全部が一次面接に進んでしまうので、次々に説明会・筆記試験・面接の案内が届くのを熟さないといけなくなりました。そのため、一社一社の企業研究・志望動機はなんとなーくの浅いままでした。

特に大手企業の選考が解禁となった4月は、1日に2,3社面接を受けるのを数週間続けていましたが、そんな奴が面接に行ってもうまく答えられないのは明らかですよね。面接で私のとんちんかんな回答に、企業の担当者は苦笑いしたり、びっくりしたり、唐突に興味がなくなり白けたり…人間って色々なリアクションができるんだなあと感じたものです。私も、何がダメなのか振り返れば良かったのですが、そこまで余裕がありませんでした。

結局、4月1日から受けた大手企業は軒並み落ちてしまいました。ちなみに、就活を終えるまでに面接は60社以上受けました(回ではなく社なのがポイントです💦)。今考えると、受ける量を減らせばそれで済む話なのですが、そのときは大学受験のときと同じ感覚で、「とにかく他の人よりたくさん活動しないと」という気持ちに支配されていました。

そんな中で、4月頭になんと1社だけ、大手学習塾の総合職(講師ではなく、事務方)で内定が出ました。1月から選考を受け始めて約3ヶ月、初めての内定が非常に嬉しかったのを覚えています。

もうここに決めようと私は考えたのですが、父に反対されてしまいました。内定承諾書という、「内定をもらいましたので、あなたの会社に就職します」といった内容の書類(強制力のない形式的なもの)をその会社に提出する必要があったのですが、保証人欄があり、親に名前を書いてもらわないといけないんですね。それを父にお願いしたところ、教員であった父の癇に障ったらしく「教育を売り物にする会社など認めない」と突っぱねられてしまいました。

そもそも親が教員なのに学習塾を就活で受けた私が迂闊だった…とこのとき初めて気付きました。ううむ、我ながら読みが甘い。なんとか認めてもらえないかと3日ほど交渉しましたが、ダメでした。元々父は気分屋なので、時間を置けばいけるかと思ったのですが、それでもダメなのでこれは本気だ…と悟りました。

親の反対に加えて、もう1つショックだったのが大学のゼミのみんなの就活状況です。4月中旬頃に春学期が始まり、4年生になって初めてのゼミ(メンバーは3年生のときと同じ)があったのですが、みんな超が付く大手・有名企業に内定をもらい、就活を終えたと言うのです。会社名は言えませんが、大手の銀行・損保・シンクタンク・鉄道・旅行会社といったラインナップでした。不景気って言ったの誰?と思いました。

みんなの内定先を聞くたびに段々と血の気が引いていきました。私も内定先はみんなに伝えましたが、どう考えても見劣りする感じは否めませんでした。他人と自分を比較してしまうのは良くないと頭でわかっていても、私が準備不足で棒に振った大手企業から、みんなはちゃんと内定を得ている。同じ状況下できちんと結果を出している人達がこんなにも身近にいることを考えると、なんだか自分が矮小で情けなく感じました。

親に内定先を認めてもらえなかった+ゼミのみんなが大手企業に内定をもらっていたことのダブルパンチが、当時かなり辛かったのを覚えています。

この後については、また今度書いてみたいと思います。

1000円カット

私は普段、髪を切るときはいわゆる1000円カットを利用しています。以前は美容室に行くこともあったのですが、予約をする手間や値段の高さ、雰囲気が苦手というのもあって、1000円カットに切り替えました。

もう数年利用していると思うのですが、今のところ不満はありません。何より、カット時間が短いのが素晴らしいです。美容室だと短くても30分はかかってしまいますし、美容師さんと会話しないといけなかったりします。

その点、1000円カットはすぐに終わるので、例えば家族と買い物に来ていても、ちょっと時間をもらえればささっと散髪して合流できるので、とても助かります。ちなみに、1000円カットと呼ばれるお店は色々ありますが、どのお店も値上げしていますので、現在は1000円のところはほぼ無いのでは、と思います。

もともと美容とかオシャレには全く興味がないので、本当に髪を切れればいいんです。もちろん変な髪型になるのはマズいんですが…。私の友人にすごく美容室にこだわりがあって、遠いのに毎回わざわざ都心の美容室を予約して行く人がいるんですが、彼の感覚は私には無いものですね…。まあ、何を大事にするかは人それぞれなので、お互いとやかく言わないようにはしてます。

私のように純粋に散髪だけを求めるタイプには1000円カットは最適なのですが、唯一の注意点は待ち時間ですね。混んでいると40分近く待ちます。休日なんかは朝イチでも混むので、空いている時間帯を模索しているのですが、なかなか難しいです。平日の仕事帰りにサクッと散髪するのが良いのかも、と考えたりしています。

バリキャリの壁は同性かもしれない

こんにちは。

GWなので連続して投稿できています。連休はありがたいです。

標題の件ですが、以前からちょっと考えていたことです。働く女性が増えた現代ですが、まだまだ男社会の職場が多く、無理解な職場に女性は苦労している…といった話は色々なところで耳にします。

ちなみに今どきの働く女性を何と呼んだらいいのかわからなかったので、ネットで調べたところ「バリキャリ」という単語があるようです。一般的に使われている呼称かどうか自信がないのですが、他に適当な言葉が思いつかないので、今回使用させていただきます。

話を戻しまして、バリキャリの方は男社会で苦労していることが多いのかもしれないのですが、私が思うのは「女社会でも大変なのでは?」というところです。

といいますのも、私が働いてる学校業界は昔から女性の働きやすい(?)業界ということもあり、女性社員、女性管理職というのはかなり多いです。私も入社してから今まで、上司は9割が女性でした。

そのような業界ですので、結構女性同士は縦社会(?)があるようです。「◯◯さんに言われたら従いなさい」とか「あの人が言うなら仕方ないね」など、年配の女性職員が年下の女性職員へ指導したらそれは絶対みたいな空気があるようです。もちろん、実態は男性にはなかなか見えません。私はたまたま周りの人から笑い話として聞く程度なので、もっと厳しいのかもしれません。

で、私が気になるのは上の世代の女性職員と下の世代の女性職員とのギャップです。例えば就業環境や子育て環境。一昔前より育休や時短など会社の制度が充実してきていますし、子育て支援センター保育所も増え、社会の雰囲気的にも利用しやすくなっていると思います。

ですが、上の世代の女性は比較的そのあたりが未整備で苦労した人達なんですよね。なので、「今の若い人たちは恵まれている」と言う人もいますし、口にはしなくても思っている人も多いはずです。

また少し前までは共働きでも家事育児はほとんど女性がしているという家庭が多かったように思います。現代の実態はわかりませんが、少なくとも当時よりは男性も家事育児に参加しているでしょう。旦那さんが協力的かどうかも世代間でギャップがあるような気がします。

実際、私も「私はほとんど子育ては1人でしたのよ」と自慢げに語る女性上司の下で働いたことがあります。ご本人は非常にタフな方で、多分誇りがあるのでしょうが、下の世代にそれを押しつけやしないか、少々心配ではありました。

したがって、バリキャリの方がキャリアを重ねる上で、そうした上の世代の女性に僻まれたり、疎まれたりする可能性があるのでは…というのが私の懸念点です。業界・職種によって上の世代に女性がどのくらいいるか違うので一概には言えませんが、女性の多い業界ではあることかなあと思います。

また、今バリキャリの方が数十年後に上の世代になったとき、下の世代とのギャップが生まれる可能性もありますよね。働く女性を取り巻く環境は今後しばらく改善が続いていくことと思われますので、どうしても下の世代ほど恵まれている…というイメージがついてしまう恐れがあるかと思います。

まあ、こういう世代間ギャップって、女性同士に限らず様々な属性の人の間でも起こることなので、最終的には上の世代の人の人格で決まる気もするんですよね。「自分達は苦労した。だからこそ、下の世代には同じ苦労をさせたくない」と考える人がどれだけ増えるか、根本的にはそういう問題なのかもしれません。

読書記録:遠野物語remix(京極夏彦×柳田國男)

2回目の読書記録です。

京極夏彦さんは、まだもう少し読む本がありますので、しばらく続くと思います。

さて、今回読んだのは『遠野物語remix』(京極夏彦×柳田國男、角川文庫)です。

柳田國男さんの『遠野物語』を京極夏彦さんが口語調の文にし、さらに順序を再構成したり補足を加えたりしてremixしたものです。

実は私、高校生のときに少し民俗学に興味がありまして、大学受験でも柳田國男さんとゆかりのある某大学を受験しようともして親に猛反対されたので諦めたことがありました。当時から『遠野物語』原典の方も読みたいと思ってたのですが、なんだかんだで読まずにおりました。

そんなわけで本書が初『遠野物語』となったのですが、remixというだけあって非常に読みやすかったです。遠野に伝わる怪異を聞き取り記したものとされていますが、伝聞とは思えないほどそれぞれの話にリアリティのある描写がされています。原典からそうなのか、あるいは京極さんの文章力によるものなのか、わかりませんが…。

個人的に面白かったのはマヨイガのお話でした。逆に怖いなあと思ったのは、山神やヤマハハ(山姥)のお話。

「願わくはこれを語りて平地人を戦慄しせめよ」これは原典にもある柳田國男さんの文だそうですが、平地人の私、戦慄せしめられました。

それにしても遠野だけでもこれだけの怪異があるとは…。ただ恐らく、遠野に伝わるとされる本書のような怪異譚は、かつては日本全国に存在したのだろうと思います。遠野では立地環境的に山に関するお話が多くあり、海に近い場所には海に関した怪異が伝わっていたのでしょう。

しかし、本書を読むと、当時もし生きていたら、怪異との距離感というか、付き合い方って難しいだろうなあと思いますね。一方で人生の教訓となるようなお話があるかと思えば、一方で人間にはどうしようもないようなお話もあり、これらをどのように受け止めれば良いか、非常に悩ましい気がします。

当時の人々がどのように感じていたかはわかりませんが、そもそもごく普通に存在するものに対して、「自分はどう考えたら…」という発想自体が現代的なのかもしれませんね。そんなことをつらつら考えさせられた本でした。